昭和54年10月22日 朝の御理解



 御理解 第79節

 「商売をするなら、買い場、売場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は式ニ銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、矢張りその方が得じゃ。体はちびるものではないから働くがよい。」

 昨日は東京支部の御大祭を奉仕させて頂きましたが、本当に合楽の御比礼の動く所、本当に素晴らしい事だなと思います。とにかく、東京銀座での事ですから、大きいお家がある筈もありませんけれども、それでもやっぱり私の長男の嫁の里です。二葉鮨で祭場をあちらに是非家でやってくれと言う事だったので、二階の二部屋を一緒にしまして、中が押入れなっておる、その押し入れが沢山集まる時には取り除かれるようになっとりますから、それを取り除いて頂いて、とにかくもう立推の余地もない。
 榊を七十本こちらから、持って行くとお届けしとりましたけど、実際は六十何本だったそうですから、少し足りませんでしたけれども、結局七十名からのあの狭い所に、廊下といわず、はしごのだんだんにまで立って、拝むと言う様なお祭りでした。あの特別参拝者、有田の源右衛門さん達が、吉富さんと一緒に見えておりましたから、一緒に参拝されましたけれども、本当に思いもかけない人達が、思いもかけない人達を御導きして参って来てるんです。
 つい先日四、五日前まで、ここで修行さして頂いとりました飯田君が、ちょうど四十四、五日ここで修行したそうです。それから日田の伊藤さんのところの皆さんも御承知のように、あちらも一、二ヶ月位ここで修行しましたでしょうか。その人達が、やはり自分の周囲の難儀な人達を、今日はこうして合楽の先生が見えるから、というので御導きをして参っておりました。
 ここに関係のある人達は、昨日は日曜でもありましたから大学に行っとります、稲垣さんのあのう稲垣さん所の御長男やら文男先生のところの息子、それからいろいろありましたですね。ここの田中加代子先生ところの兄弟達やとにかく、ここにかかわり合いのある人達が、「私があちらへ行く」。という事が、めいめいのおうちから通知がしてございましたのでしょう、皆参っておりました。熊谷さんのところも嫁が来とりました。それからむつやの文香さんのところは、あちらはまぁ一家中て゛来とりました。
 本当に今日の御理解を頂いてみて思う事なんですけれども、商売をするなら元を仕込む所と、いうならば売り先、いやお客さんを大事にしなきゃならないと。しかも拾銭かけるものなら八銭でとこう仰っておられる、この道理というものは、まいうならお互いの上にもそれが言えると思うのです。教会の上にもそれが言えると思うね。いうならば、ここで例えばなんでもない、そのここに熱心に参って来るということでもない、飯田君の所の家族がそう、まぁ年に何辺しか参って来んくらいですけども。
 息子がここで修行したいと四十何日間もここに居る。私が撫でたり擦ったりする分けじゃないけれども居り良か。という事は、いうなら「私の心か゛信者一人一人を大事にしておるというものが伝わる」から居れるんだと思うんですよね。別に彼達が何をする、ここで役に立つというわけでもないけれども、ならここで寝食を共にする、あぁもう気の毒うしてここに居りにくいと言った様なものがないという事。これは伊藤さんの場合であっても、それが言えると思うです。
 でこんなに有り難いところだ。いうならばお客さんを大事にするから、またお客さんがお客さんを連れてくるような、私はものではなかろうか、そういう働きがおこったからではなかろうかと。もちろん仕入れ先であるところの神様を大事にするという事においては、皆さんが御承知の通りである。本当に合楽の御比礼の動くところに、そういうならどこへなら支店を出しても、その支店が繁盛すると言う様なんです、元は本店でちゃあんと作ってあるという事なんですね。
 本当に有り難い事だと思います。お父さんが、そんなに人間が二階に上がるなら、二階が落ちるかも知れんと心配された位です。お店の上の二階には柱がない。だからその人が上がる方の仮の祭場を北の方へする筈ぢゃったのだけれども、丁度店の上になるから、こちらの方へ移した。移してする程の事しでございました。昨日の朝、私があちらの何というか東急ホテルというですか、銀座にあります大きな素晴らしいホテルでしたが、そちらに宿を取って頂いておりました。
 そこへまぁこちらから行った人達は、みんなそこでおかげを頂きましたが、朝方お夢を頂きました。それは若先生が私に、「どうしてもやはり愛心力を頂かければ出来ませんねえ。」とこう言っているんです。愛心力なんて聞いた言葉でもない。けれども愛心力とは愛の心の力と書くだろうと私が思うておる所で眼が覚めたね。真一つで助かる、親切一つで助かる、とこう言われますね。それこそ愛の力を持ってと言われますけれども、その愛の心も真も、やはり力を持った愛でなからなきゃならないと。
 私は改めてこの事を感じさせて頂きましたね。合楽理念なら合楽理念を一通り、ならマスターする。と言っても覚えただけではいけない、知っておるだけではいけない。それをその中身がです、言うならば実験実証が、繰り返し繰り返し出来て、初め言うならばそこに大きな働きが生まれてくるんだと思いますね。それは世の中には教祖の御教えにもありますように、「信心をしておかげを受けるというのは、人の良いのと悪いのとはは別物じゃとおっしゃる。
 あの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃ、と言うても、次々難儀な事が起こって来ると、どうした事であろうかと言った様な事が世間にはあろうがとね。信心しておかげを受けるという事は、人の良いのと悪いのとは違う」とこう仰る。あの人は正直物だ、あの人は本当に愛の心の深い人だと、真心の篤い人だとこいうてもその真心がありますよね、信心がなかっても非常に親切であったり、真心のこもった人があります。けれどもその愛が、その真心がね、力を得なければダメだ、という事ですね。
 昨日、その事があちらの東京でのお話の、芯になったわけでございますけれどもね。只親切である、真心が篤いというだけでなく、それがねいうならば、合楽理念に基ずいて繰り返し繰り返し、実験実証されて初めて力がつくんだという事です。私今度稔さん所のお店からほんな一、二分ぐらいの所に立派なマンションが出来とります、そこを今度買い取らせて頂いた、マンション住まいです。
 それで今迄お店で住ってた所は客間に、お客さんの使われる部屋にして、また立派になっとりました。御神様も小さいながら綺麗にお祭りしてございました。とそこに額に入って私が書いたものが、そこにこう揚げてありましたが。こんな事をいつ書いてあげたか、私も覚えんのですが、あぁ素晴らしい事だなぁと言うて、あのその事も皆さんに聞いて頂いた事ですけれども、「小さい事にこだわらず、大きな事に驚かず、天地のように生きたい」。と書いてあった。
 あちらの斉(ひとし)君、息子がなんか高校か何か行く時に、お願いに来た時に頂いたもんだそうですけど、私は覚えませんね。皆さんどうでしょうか。小さい事にこだわらず、しかも大きな問題が、どういう大きな問題がおきても、どっこいと受けられる心ね。そして天地のように生きたい。皆さんこの願いを持たなきゃだめですよ、合楽で信心するなら。小さい事にこだわる、それは神様を信じてないから。
 大きな事になったら、もうおろたえる、もうびっくりする、神様を信じてないから。ところが私共の前には、小さい事大きい事、様々色んな事がございますけれども、そういう問題を一つ一つ、合楽理念に基ずいてです、日々信心の稽古をさせて頂いて行くところにですね、いうならば愛の心も力を得る事でしょう。真、真心もやはり力をいよいよ受けて行く事でしょう。
 だからあの人は良い人だけぢゃいかん。良い人が力を受けなければだめだという事です。それは合楽理念にもとずく生き方、いうならば小さい事にこだわらず、ガタガタ小さい事にがたがたせず。と言って大きいドッコイと言う様な時にね、それこそ、目の前が真っ暗になるような事が、例えば起こっても、それをドッコイと受け止めれる信心をしたい。それにはね、根本としてです。天地のように生きたい。というものが根本でなからにゃいかんです。
 いわゆる天の心、地の心を本気で身につけようという事は、天地のように生きたい、という願いを持つ事なんですね。天地のように生きたい。これが皆さんの信心の根底になからなければ、だからどういう問題であっても、これがもし天の心で受けるならば、地の心で受けると言う事どういうことであろうかと、その問題がしばらく始めの間は、暇が要りますけども段々稽古をしていくうちに。
 即それを天の心で受けていく事が出来、地の心をもって頂いていく事が出来るようになる。その稽古、それが私は力になるんだと言う風に思います。為にはやはり天地のように生きたい。天地金乃神様の御心に、添い奉りたいという事なんです。その願いを根本にしておかなければならないという事。そこから今度は神様をいよいよ大切にする。またはここでいうならは゛信者を大切にする。
 信者一人一人を私が撫でたりさすったりする様に、というわけじゃないんですけれども。今の伊藤君の場合でも飯田君の場合でもね、何でもないのに、四十何日間ここにお世話になる事が、お世話になり良いね、ひとつもそこに気兼ねを感じさせない。気の毒かここでは何もする事もないとに、ここでこうしてお世話になっとる。という事はね。そこに気の毒かとか気兼ねを感じさせない程に、ここには信者を大切にするものがいっぱいある。そこにはそういうおかげになってくる。
 そういう人達がね、私がひとたび東京へやらせて頂いた時にはです、その御恩返しにと言うて、連れてくるのぢゃない。自分がその間に助かった、だから自分の周囲の人達の困った人、難儀な人をいっぱい御導きをしてくるんです。あそこで買ったら安かった、とても親切で品物も良かった。というから次々に求める人達を、いうならばまたお客さんがお客さんを連れてくるような働きがおこってくる。
 勿論大元を大事にする、という事は勿論のことね。神様を大事にするという事は勿論の事。そこにです、いうならばね、繁昌のおかげにつながってくるように、合楽の御比礼もそういうところからね。合楽の比礼の動くところ必ずそこには、いっぱいのおかげが受けられる。本当にね、やはりそのもう行って拝んどらにゃわからんです。の神様の生々とした働きと言うものは。
 もう時間励行でお祭りさせて頂きました時は、もう上がる時にもう立錐の余地のないようなおかげの、いうなら神様の生々とした御比礼の中に、お祭りを奉仕させて頂いてです、まぁあそんなにも感じてもいなかったんですけれども。今日のこの御理解頂いて、これは商売人に下さる御教えだけではないな、皆めいめいがそういう気持ちをもたなければならない。 そこには、いうならば私がどのくらいな思いで信者の一人一人の上の事を思うておるか。
 昨日の沢山のお参りのなかには、ほんなもう電話だけでおかげを頂いておる、という人達もいくらもありました。そういう方達が皆んなやっぱり御礼参拝をして来ておりますね。だから本当に大切にするとか、しないとかと言った様なもんじゃなくて、一様にですね、いうならば、ここでいうならば信心の稽古をさせて頂くなら、「私はお道の教師になるけんで、これたら当たり前。」そういう事ぢゃないでしょうか。
 今ここで、原さん達が親子、修行させて頂いとりますけれども、この人達が金光様の先生になるけんでの修行なら、だれでもそりゃ教会として受けるでしょう。そういう事ではなくても、ここに居りにくいとか、そういうものを全、然感じさせないというところ。いかにここで人を大切にしておるか。口でとか形でするとかじゃないですけれども、そういう心が、原さんの親子に伝わるから、やはりこうして、お世話になっておれるという事になります。
 そしてお世話になっとると言う様な感じではなくて、とにかく日々ありがとうなって、それこそもう一日もう一日で。いうならば、四十何日間も飯田君が、ここでおかげを頂いたような働きが生まれて来ておるんなら、そういう人達がまた、いうなら次のお客さんを連れて来ておる。と言う様な道理から言うと、これは商売人だけの教えではない。というふうに感じさせてもらいます。ま今度の東京でのお土産話は、まぁぼちぼち致しましょうか、まぁいろんな意味で大変おかげを頂いてかえりました。
   どうぞ。